自家消費型アーティスト
- Kosaku Toyoshima
- 2018年7月21日
- 読了時間: 6分
更新日:2019年11月4日
ここ二週間ほど、バンド大沢野鳥の会の2年ぶり3回目の合宿などバタバタしておりました。
合宿のバンドの公式見解は別途、大沢野鳥の会のFacebookページから配信されるかと思いますので、以下、合宿の感想も踏まえた完全なるモノローグです。
モノローグといっても、書いた文章を自分で見ながらまた書くことを繰り返すので、これは鏡に向かって自分に語りかけるような、一種の変質的ダイアローグですかね。
ダイア、といえば音の並びの種類のダイアトニック、というものがひとつ、これと対をなすのがクロマチックつまり半音階で、半音が組み合わさって全音階に、というと、いつまでたっても半人前の自分とそれをディスプレイ越しに見る半人前の自分が一体となってようやく一人前になる、みたいな。SNSの裾野も広がって久しいですけどね、皆、半人前の自分をSNSを通して半人前の自分が見ることで自分を補完していくような救済装置としてのインターネットの存在を感じる今日この頃でもあります。(全然救われてなくて怨嗟と怨恨のカルマン渦に波乗りしてらっしゃる方も多いですが)
組織や人の関わりの中で働く人にとって、対話つまりダイアローグが重要と言われますけどね、ダイアローグって結局は1対1の関係なんで、あれ、正確にいうとポリローグとかマルチローグという言い方が正しいんではないでしょうか。ようやっと、聖徳太子的スキルが求められる時代になったわけですよ。ワタクシにゃ土台無理ですが。
バンドの夏合宿の話に戻りますが、1回目は結成してすぐ、二回目は2年前でこれは館山のとある元リゾート・ホテルを別荘としてリサイクルしているオーナー様とのご縁もありまして、1階を即席のプライヴェート・スタジオに改装、楽曲制作に勤しんだのでありました。

ですがコレ、当然、普段はこの空間はオーナー様の別荘としてのリラクゼーション・スペースなわけなので、レイアウト変更、またドラムはじめ主要機材は全て持ち込み、ということで大変な労力もかかり、さらに飯は自炊、ということで滞在時間の1/3くらいはメンバー全員で料理していたような記憶も、、ありますが、当バンド、心身の健康と生活に立脚したサウンドを旨としておりますのでコレはコレで意義深い合宿だったわけですよ。ちゃんと新曲もできましたしね!

(晩餐の様子)
とまあ、2年前も大変味わい深い合宿だったわけですが、今年の合宿は、気がつけば「バンドの結成もしかして10周年ディケイド?」という妙な切迫感もありまして、事前にやることをリストアップしたところ大変充実の反面、やること多すぎて皆疲労困憊、コンパイ・セグンドといえばブエナビスタのアディオス、18年前というとワタクシ16歳ですけど、当時はとにかくキャメロン・ディアスが好きでした。
今年の合宿は、演奏もそうですがワタクシ、映像記録係としての任もおっておりましたのでロクな写真がありませんが、旅の様子は以下動画でお楽しみ頂ければ、と思っております。
はてさて、3日間、つかの間のアート活動に勤しみましたが、普段ワタクシ、昼の仕事としてはサラリーマン稼業をやっているワケでありまして、対外的にも「ビジネスのプロ」もしくは「プロのサラリーマン」を標榜しなければならない責務をおっております。
ビジネスというのは、基本構造として誰かの困りごとを解決して対価を頂く、ということですので、これを仕事として捉えた場合、当然与える側、与えられる側双方にとって意味を持つ営みな訳であります。
一方、アートはどうなの?と申しますと、これはやはり、自身の内側から沸き立つ何かこう、自分でも理由が説明できない衝動のようなものを源泉として表現されるものでありますので、特段、誰かの困りごとを解決するとか、誰かの要求に応じて請求書を発行する類のものでもありません。
そうなると、言ってみれば自分という客に対して提供し、自分から対価をもらうような、言ってみれば自家消費型の運動ですので、それ自体で生計を立てようとする、もしくはそれを志すこと自体が、どうにもある種の矛盾を孕んでいるように思えます。
もちろん、世の中には例えば演奏技術に優れた人や、何かをカタチにする能力に秀でた人など、それ自体を否定するつもりは毛頭ありませんが、他者に対する交換関係が成立している、という観点からすると、結局はアートでサラリーを頂いている、ということで純粋に自身の中から湧き上がるモノを表現することで対価を得ようとする、こととは根本的に異なり、先のビジネスと構造的には同一と思います。
まあ、結局はよくある「世の中から評価されない人の負け惜しみ」ではありますが、
表現者たる者、「生計を立てるためのビジネスと、自分を救済するためのアートをどう両立させるのか」というのは頭の後ろ、2ミリくらいを常に覆っている背後霊のような物でもありますので、これに対する考えを吐き出さないことには精神の健康を保てないようなシーズンも時折やって参ります。
アート活動というものはとかく金や労力もかかりますので、ビジネスで得られた可処分所得をいくらかアートへ回していくか、もしくはアートを人に求められるような形までモディファイするのか?結局は自分がどうありたいか、の裏写しのような気もします。
例えばアート一辺倒の人間をビジネス側から揶揄したり、ビジネス一辺倒の人々をアート側面から小馬鹿にしてみたり、このようなデュアル・スタンダードがあるうちはどちらもそこそこのものしか体得できないのかもしれません。
ですが、「アーティストになってみないと、アーティストの大変さはわからないよ、、、」という批判は「ビジネスマンになって見ないと、その大変さはわからないよ、、、」と言っているのと(なんらかの活動でサラリーをもらっているという意味においては)構造的には等価で、そんなにシンプルに二元論二分割しなくても良いようにも思います。
これ例えていうなら、鳥の一族と獣の一族を何度も寝返ったコウモリが、どちらの種族からも嫌われて仲間外れにされ、やがて暗い洞窟に身を潜めるようになったイソップの「卑怯なコウモリ」のメタファーを彷彿とさせますけど、個人的にはあのコウモリはどちらのスタンスにも冷めちゃっただけなんだと思ってます。逆さまにぶら下がってるのは、世の中を逆さまに見たいんじゃなくて、そうしてるのが楽なだけですきっと笑。
つまる所、アートだろうが、ビジネスだろうが、(絵画は別ですが)結局は人の関係性の中での営みですので、その場に存在する交換関係に目を凝らし、耳をすませ、手を差し伸べ、自分の中に沸き立つ衝動をその関係性の中になじませていく、そのような繰り返しでしか、前に進んだ実感を得ることはできないのかもしれません。
遍く人に、NUMBOUTDUB EXPERIENCEを、
豊島 考作




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