企業勤めの「やり過ごしタイム」
- Kosaku Toyoshima
- 2018年8月15日
- 読了時間: 5分
更新日:2019年11月4日
いくら仕事好きな方でも、1日8時間、集中しっ放し、ってのはありえないと思いますが、
企業勤めが長くなると、どうしてもたまーにあるんですよね、会社員として日銭をもらうための、ネットサーフィンという名の非生産的な情報収集。
本来なら、やることないなら帰るか、本でも読んでりゃ良いんですが、1日8時間働いてね、という雇用契約なので、事務所にいるときは「やり過ごしタイム」なんてのも発生しますし、読書しようもんなら周りの同僚とのトーン&マナーが違いすぎて、後ろめたくて集中できない、みたいな。
個人的にこの1年半ほど、キッチンタイマーでやった仕事の時間を計りまくってますが、ならすと平均で、一日のうち「働いた!」と思える時間はおおよそ4〜5時間/8時間くらいです。
差分は、見積もりで15分未満の細かい仕事はそもそも計測してなかったりするのでその積み上げや、移動してたり、雑談してたり、などですが、ネットサーフィンのような、「やり過ごしタイム」も含まれてます。
(なんでやり過ごすかって言ったら、そりゃ、新しい仕事が降ってきたら困る、というのもありますけど)
この時間、本来つぎ込むべき時間に費やせたら、例えば堂々と新しい知見を得るために本を読んだり、どこかへ出かけたり、絵を描いたり、楽器の練習したりできたらどんなに良かろうか、と思うわけです。
一日8時間働いてね、という中で、4〜5時間は会社から委託された仕事に時間を費やすとして、それ以外の3〜4時間を堂々と何かに使えたら、
1ヶ月の稼働日20日として60〜80時間、1年で720〜960時間
これをもし、何か一つのことに打ち込んだら、10年後には何かのプロフェッショナルになれる、という寸法です。
そうしなきゃならんのは頭では分かっているんですけどね、なぜ、できないかというと、
「仕事とはこういうもので、この場にいなきゃならんのだ、どこから投げられるかわからん仕事をキャッチするためだ」という思い込み
「先週はほら、色々忙しかったし、たまにはこういうアイドリングも必要なんだよ」と、なんとなく自分を納得させるのに慣れたから
根底にあるのは「ある種の後ろめたさ」と思います。
まあ、考えてみれば、初めは与えられてない仕事でも、労力を注ぎ込むうちに「会社から委託された仕事」化して、堂々と「いや、遊んでるように見えるかもしれないですけど、これ本業ですから」と振る舞える例もあるわけです。
「与えられた仕事でないこと」に時間を費やすとどうしても「後ろめたさ」や「違和感」が発生してしまいますが、例えば考えるヒントとして、「自分の事務所でこれやったら」違和感最大!なものを列挙すると
・デスクで漫画を読む
・レゴブロックで遊ぶ
・事務所で楽器を演奏する
・フランス料理を食べる
・ブログを書きまくる
・寝る
なんで違和感が出るかというと
①周りの人とあまりに違う挙動だから
②周りの人の自分に対する「この人はこういう仕事をしている人」という認知の枠から外れるのが嫌
①については、例えば出版社の人ならば「競合分析」という名目で特に違和感ないのかもしれないですし、シェフなら当然試食などあるでしょう。
なので、自分が属する職場で「どういう振る舞いがその職場にとって自然なのか?」というのに尽きる、とは思いますが、要は「自分で自信を持って正当化できる理由があれば、気にする必要ナシ!」で良いんだと思います。
フランス料理の例は極端ですが、自分も一時期レゴブロックが机の上に積まれたりしてましたが、「それ、仕事と関係あんの?」と言われてもキッパリと言い返せる自信ありましたもん。
②についても、主に自意識の制約なんで、今でも隣の島の人が普段使っているシステムとか、PCの画面見てもチンプンカンプンなんで、逆もまた然りで、全く気にする必要は無いのだと思います。
なので、結局は「周りの人と挙動が違っても、別に気にする必要はなくて、自分の捉え方次第」なんでしょうな。これって、企業勤めの人にかけられた「呪い」みたいなもんだと思いますけど。
こうなると、まずは自分がやりたい放題やっている昼間の事務所での振る舞い、をリストアップして、いつまでにそれをやるか、を決めれば良いだけではあります。
というか、単純にネットサーフィンして、情報に晒されてそれを目から取り入れてるだけだと、疲れちゃうんですよね。だから健康のためにも適度に思考を排泄するのが重要、みたいな。
ネットの情報は超速で手軽に得られますんで、例えていうとジャンクフードを食べているようなものなんで、たまに下剤が必要なんですよ。んで、思考を排泄するのも、その痕跡を実感し、総覧できるようなものでないとダメなんだと思います。
SNSで呟きまくるだけってのは、ただウンコしてその行く末を気にしない、大海原に流れたのか、処理場で分解されたのかすら気づかないままに生活をするのに等しい、と思っておりますので、「ああ、俺はこういうウンコを出してきたのだなぁ」というのをしみじみと眺められるような、ウンコ・ライブラリーのような陳列棚が必要なんですよね。
幸い、デジタルというのはいくらでも複製可能ですので、もし、幸いにも自分のウンコが誰かの肥やしになったとしても、自分のウンコはそのまま自分の陳列棚にありますんで、複製されたウンコが旅立てばそれで良いのだと。
健全にウンコをし、それを眺める、というのが情報化社会においては大切なことなんだと思います。
遍く人に、NUMBOUTDUB EXPERIENCEを、
豊島 考作



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