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つれづれならないままに

  • 執筆者の写真: Kosaku Toyoshima
    Kosaku Toyoshima
  • 2019年7月4日
  • 読了時間: 6分

更新日:2019年11月7日

信仰に対する批判は、ちゃぶ台を引っくり返されて終わる


親愛なるあなたへ、


という書き出しで始めるのがどうやらブログ初心者の定石らしいですが、とにかく自分に対して書くことを強いる、というところから何かが生まれるそうなので、たまには思いついたまま、片端から書き連ねる、ということでもやってみようか、という気分ですが、そうなるといつまで経っても読点を打てなくて一文がだらだら長くなるんですよね。


そもそもが、思いついた端から書いていく、という一人ブレーンストーミングのような作業は自問自答の禅問答を繰り返しているようなところもあって、「書くことを書くために書く」なんてトートロジー気味の循環を脱出するにも書くしかないんですが、


まあ、徒然なるままに、というのも「やること無いから書いてみたら狂うほど面白かった」らしいので、1億総SNS化が進展していき、あてもなくタイムラインに書き込みを続ける状態になれば、高等遊民化が進んだ現れでしょうかね。


「書くことを書くために書く」ことを「書くために書く」というループも、


書くことを書くために書くことを書くために書くことを書くために書くことを書くために書く


くらい繰り返すと、どこに区切り(スラッシュ)が見えてくるかと言うと


書くことを書くために



書くために書くことを


のどちらかですが、これはまあ、音楽で言えばオン・ビートとオフ・ビートのパルス強度が均質化し、区別がつかなくなった状態のようなもので、一種のミニマリズムです。


オフ・ビート(聴感上パルス強度が弱く聞こえる部分)から楽曲が始まることはアウフタクト、つまり、タクト=指揮棒、が上がった状態、ですが、これの反対語は「アプタクト」って一応あるらしいですけどね、強拍から始まるのがスタンダード過ぎてほとんど使われてない、みたいな。障害者、という名前が付けられて始めて、「健常者」が記号化される、というような、一種の片記号性ですよねこれは。


今日の話は、書いていてだんだん何を書いているかよくわからなくなってきてからが本番ですが笑、


この、「書くことを書くために書いている」状態と「書くために書くことを書いている」状態の区別が無い状態、これを一つのミニマリズムと捉えまして、


自分の周りを見渡しても、昼の時間、メールやらドキュメント作成やらで日々大量のテキストを生成しながらも、それに飽き足らず、なぜSNS(や、こんな場末のブログ)で書いているのか? というと、例えば昼のメールならば「誰かに伝えるために書いている」という状態で、この「・・・ために」という目的部分を必要としない「書く」という行為を本能的に欲しているんではなかろうか、とも思います。一種の排泄行為。


そりゃ、ブログやSNSでも、何か有益な情報を共有する、とか、ライターとしての腕前を磨く、とか明確な目的が存在する場合もあるでしょうが、徒然草も、目的度外視ではじめたらあんなテキストになった、ということ(らしい)ので、いたずらに目的を追わず、つれづれなるままに目的を負わず、今日のブログも目的不在の場当たり的に進んでおりますので、せめてその精神性だけでも見習うべく笑。


だいたいが、日々の現代社会、全然つれづれならない、というか、やること山積み、だけど自分は本当にそれをやるべきなんだっけ?


つれづれなるの?ならないの?


という茫漠とした毎日をお過ごしだと思いますが笑、


「やりたいこと」なんてのも、


「自分が本心からやりたい」


のか


「周りとの関係性から、それをやりたいと思わされているに過ぎないが、それを認めると精神の安全を保てないため、自分のやりたいこと、と置き換えて信じ込んでいる」


という状態と区別はつかないわけですよ。


傍目から見たら


「ねぇあなた、そのあなたが今のめり込んでるものって、上の人から強制されたからでしょ?」


という状態でも、その人が心の底から信じこんでいるのか、信じたフリをしているのかは見分けつかないです。信じる者は救われる、信じるも信じないもアナタ次第、じゃないですけど、自分が、


「自分はそれを信じていると自分で信じられている」


状態なのか、


「あれっ、自分って本当にこれを信じているんだっけ?」


という状態なのか、そういう意味で、宗教は「自分の(うつろいやすい)信仰心を」他者に介在させ、信仰を自己強化させるという強力な装置ですが、それでもやっぱり人はたまに改宗しちゃうので、


「自分は信じているのか、信じこまされているのか?」


という着地点の無い問いはそれこそ「つれづれなる」ままに探しあるくのがベストかと笑。

まあ、探し歩いても、自分探しと一緒で結局見つかんないですよコレは笑。


信じるために信じるために信じるために信じるために


これは、先の例でいうとスラッシュの付かない、区切りの付かないワンパルスのリフレインで、躍動感もへったくれもありません。やはり人生に実りをもたらすのは、


書くことを/書くために


のようなツー・パルス(もしくは区別のつかないデュアル・パルス)かそれ以上のパルスを色んな起点で見てみることによる、「あれっ、コレって表?裏?」ってなるような問いですね。最近のトレンドの「複業」なんかも、社内/社外で同じスキルを活かすことであれば、スキルを活用する場が異なるだけであって、そこにはパルスの二重性はありません。


パルスの二重性ってのは、たとえば


「正室か、側室か」


「サイエンティストか、アーティストか」


「今のガールフレンドか、浮気相手か」


「エスタブリッシュな学校か、ストリートか」


の様に、ある部分相反する要素の同時性が無いと成り立ちませんので、


「自分は信じているのか、信じこまされているのか?」


というのは、「信じる」という点に置いて一方方向的ですので、


「自分は信じているのか、信じていないのか?」


としても、「あなたは信じないことを信じますか?」


とちゃぶ台を引っくり返されて終わるので笑、やはり、信仰に対する批判はエンドレス無限ループになるのでこれは「信仰の不在証明」みたいな無限地獄になります。


まあ、カルマに見つかるとロクなことはありませんが、ループは抜け出すことのみが正しいか、と言われれば、必ずしもそうではない気もします。回れば回った分だけエネルギーが蓄積されるので、その分スイングバイでより遠くへ行ける!はず。


最近は昼間に30-40分、ラッパの基礎練をやれる場所と時間が確保できて、ロングトーン→7thコードトーン→リップスラー→タンギング、をルーチンで繰り返す日々ですが、基礎練は基本同じことの繰り返し、で、ちょっと前に基礎練メニューを変えてみたら全然ダメでした。何がダメかというと、アンブシャの支えが崩壊しちゃって、トーンがパスパスになっちゃったんですが、ただでさえ自分はアンブシャ崩れ気味なのでこれはいかん、と、結局元に戻しましたけど、

もしかしたら、新しい基礎練メニューを忍耐強く続けていれば新しい世界が開けたかもしれませんが、それをシフトさせるのは相当な不安が付いて回りますね。


それだけループの脱却にはエネルギーを伴うものなので、ある面、禅問答無限地獄に入ってしまってほうが楽、とも言えます。


話が脱線しすぎて、だいぶ何言ってるかわからない状態になってきてますが、落とし所のない話をどう投稿として完結させるか、というと、最終的なパンチライン、結びはやっぱり存在しないわけです笑。


意味や目的が無いところから始まり、意味や目的もなく終わった、そういう感じで、明日も元気に生きたいと思います笑。


ではまた!


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